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新井白石が住んでいたといわれるあたりです。
日本史上ではほとんど誰もが知っている人物ですが、意外と小さな史跡なんですね。もっと立派な何かがあるのかと思っていたので、ちょっと拍子抜けしちゃいました。
新井白石は、徳川六代将軍家宣、七代将軍家継の相談役として活躍した儒学者です。
先祖は上野国の小領主で、豊臣秀吉の小田原攻めによって没落したとされています。明暦の大火の翌日、焼け出された避難先で生まれたとされています。
青年期の数年間、久留里藩主土屋利直に仕え、久留里の地に赴いています。新井白石は土屋利直の江戸詰の家臣の子で、幼少期から優秀でした。13歳で、土屋利直の代筆を勤めていたそうです。気性が激しく、大火の翌日に生まれ、怒ると眉間に「火」の字に似たシワができるため土屋利直から「火の子」という愛称で呼ばれ、後年では幕府の反対派からは「鬼」と呼ばれていました。
21歳の時、土屋家の内紛のため、久留里藩から追放されてしまいます。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
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今は安住公会堂と、小さな公園になっています。
久留里藩を追放されたのち、江戸へ出て木下順庵の門下生となります。
また、大老堀田正俊に仕えます。しかし堀田正俊が稲葉正休に暗殺され、堀田家は藩内財政が悪化し、浪人して独学で儒学を学び続けます。
新井白石が37歳の時、甲府藩に仕えます。
そして幕閣入りを果たし、六代将軍家宣のもとで、「正徳の治」を推し進めました。
徳川家継が没して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し、公的な政治活動から退きました。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
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ちょっと離れた竹やぶ、ここにも新井白石居宅跡と書かれていました。大きな屋敷を構えていたのか、それとも実際のところ、このあたりのどこに住んでいたのか良くわかっていないのか・・・
青年期をすごした久留里での友好関係は年月を経ても続いていたようで、新井白石が55歳の時、久留里の有人の伴幽庵に宛てたヤマイモの贈答に対する礼状、「新井白石書簡」が残されています。
久留里での新井白石の住まいは、安住の侍屋敷にあったと伝えられています。現在の久留里小学校の近くとされています。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
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