|
|
久留里城の入り口になります。
トンネルの上にも道がありましたが、前日と明け方の大雨で道が川になっていて通れそうになかったので諦めました。すぐ上あたりに城山神明社があるみたいです。二の丸に向かうための旧道になっています。
黒田直純が、久留里城築城中の1745年(延享2年)5月16日、久留里城の鬼門に神明社を建立しました。神明社の祭神は天照大神になります。さらに、黒田直純の守護神丹生明神(にうみょうじん)、その他三柱を祀り、領内安堵を祈願しました。
1782年(天明2年)、剣之峯に社殿が完成し、丹生明神を移しました。しかし久留里城廃城にともなって、明治44年、再び城山神明社に合祀されました。燈篭、鳥居、狛犬なども、神明社に移しました。
丹生明神は高野山犬飼明神を祖神とするため、神前の狛犬は日本犬です。
説明看板には丹生明神の総本社は高野山の犬飼明神と書かれていますが、丹生都比売神社のことかな? |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
反対側から見た城山隧道。観光客だと思うんだけど、意外と車が通るんだよね。
天守閣までずっと上り坂が続きます。城山隧道の入り口あたりが海抜43mになります。この先の駐車場が海抜55m。久留里城址資料館のある二の丸が海抜128m。本丸の天守閣のあるあたりが海抜145mになります。
気分的には、二の丸あたりで海抜1000mは越えてるんじゃないかなーっていうくらい、大変でした(^^ゞ |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
ちゃんと確認しなかったんですが、たぶんスギの木。もしかしたらヒノキかな?
比較的若い木なので昔から生えているわけではなさそうですが、たくさんのスギの木が植えられていました。秋葉神社にも、たくさん植えられていました。
はっきりいって、空気が美味いです!空気が澄んでいるって感じで、マイナスイオンのおかげで肺が喜んでいました(^^)
身近な植物図鑑:スギ科の植物 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
ここが久留里城の火薬庫跡だそうです。
一見、何にもなさそうですが、なんかきな臭いニオイが・・・。なーんてことはありません、火薬のニオイもありません。
久留里城は別名を「雨城(うじょう)」といいます。
その名前の由来は久留里記にあり、「城成就して、三に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」と記載されています。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
けして深くはありませんが、横穴が掘られてありました。古墳時代以前の遺跡でしょうか、それとも久留里城の施設のひとつなのでしょうか。
戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真理谷武田氏(まりやつたけだし)の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。
天文年間(1532年〜1555年)の後半になると、安房の里見義堯(さとみよしたか)は上総に侵攻し、本拠地を久留里城に移します。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
何も解説板などはありませんでしたが、久留里城の堀切なんじゃないかなー。崖が崩れた跡のようにも見えますが、なんとなく堀切のような気がする。ゴーストがそうささやくの。
尾根筋の通路を断ち切るように設けた堀のことです。通常は橋が架けられ、敵が侵入してきたときにはこの橋が外されます。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
上の写真とは別の場所、でもこちらには堀切って看板が書いてありました。間違いないでしょう。
観光客も転げ落ちてしまいそうな、そんな険しい堀切です。
1564年(永禄7年)、下総の国府台(こうのだい)の戦いで、里見氏は北条氏に敗北し、久留里城も北条方の手に落ちてしまいます。
しかし2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を支配します。その後、北条氏の勢力に押され、1577年(天正5年)、里見義弘は北条氏と和睦します。
里見義弘の死後、家督を継いだ里見義頼(さとみよしより)は、安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれます。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
木が生い茂り、草が生え、落ち葉が積もると、堀切の深さや形などがわかりづらくなってしまいますね。
こちらは道路工事のため、このようになったのでしょう。堀切の規模がわかりやすくなっています。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったとの理由により、上総の所領を没収されてしまいます。
以後、関東は徳川氏の支配下となります。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
お玉が池って、どこに行ってもあるんですねー。でもここのお玉が池には、なにか名前の由来があるのかな?その驚きの由来とは!?
久留里城の二の丸は、水源がなく不便な場所でした。当時の城主の里見義堯(さとみよしたか)は、家臣の兵馬に池を掘るように命じました。
しかしあるとき、兵馬が池を掘っていると、兵糧庫が焼失する事件が起こります。火の不始末の疑いで兵馬は囚われの身となります。
城将の小川秀政の娘の「お玉」は、これを哀れみ、代わりに池を掘り始めますが、兵馬は打ち首となってしまいます。その後、その疑いが解けると、お玉は髪を切り、兵馬を弔ったとのことです。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
久留里城の郭跡。跡地なので、何にもないですね。
曲輪、郭などと表記されます。防御・攻撃のために造成して設けられた、平場の区画です。
近世の本丸など、主要な曲輪の外側にあるものを「腰曲輪(こしぐるわ)」と呼びます。中世では、本丸のことを、本城(ほんじょう)、実城(みじょう)と呼びました。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
こっちが本当の曲輪跡かな?
関東が徳川の支配下になると、久留里城には大須賀忠政(おおすがただまさ)が3万石で入城します。そして1602年(慶長7年)、土屋忠直が2万石で入城します。
江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者・新井白石は、土屋家二代目の土屋利直(つちやとしなお)に仕えます。18歳〜21歳までの青年期を、久留里で過ごしています。
三代目の土屋頼直(つちやよりなお)の代で、お家騒動が起こり、1679年(延宝7年)、領地召し上げ、廃城となります。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
ベンチがあって、景色も綺麗で、休憩をするにはちょうど良い場所ですね。雨が降ってなければ、休憩できたんだけどなー。
廃城になって約60年後の1742年(寛保2年)、黒田直純(くろだなおずみ)が3万石の藩主となり、江戸幕府から5000両を拝領し、3年の歳月をかけて久留里城を再興しています。
黒田氏の治世は、初代黒田直純から約130年間続き、九代目黒田直養(くろだなおなか)の時に明治維新を迎えます。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
|
お城には、かならず神社がありますね。久留里城に祭られている神社は、八幡神社でした。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
|
全国的に有名な人物ですね、新井白石の銅像です。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
説明板には、二の丸長屋塀跡と書かれてありました。復元したものでしょう。
この長屋塀は、二の丸の西側に位置し、眼下に三の丸を望む場所に建てられていました。
本来は多門櫓(たもんやぐら)に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているので、長屋塀という名称が使われています。
長屋塀は細長い形をした長屋風の建物で、用途は主として諸道具を収納する倉庫に用いられていたと考えられます。
調査の際に確認した礎石は、全体の約2分の1程度でしたが、配列状況から判断すると、長屋塀の規模は絵図に記載されている通り、ほぼ十間(18m)x二間半(4.5m)だと推定されます。
礎石の作りは、天守台に比べてかなり粗雑で、石質も悪く、ノミによる整形の跡がみられます。このことから礎石は、ほとんどが赤褐色の砂岩で、二の丸から切り出した石を使用しています。
また、礎石からおよそ一尺(30cm)ほど離れたところに、軒に沿って瓦が立てた状態で埋められていますが、軒からの雨垂れを受ける「雨落ち溝」の役割を果たしたものと考えられます。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|
ここが鶴の曲輪跡になります。それにしても、久留里城って現在の大きさからは想像できないほど大きなお城だったみたいですねー。
明治維新後、1872年(明治5年)、城の建物は解体され、久留里城の歴史に幕を閉じられました。 |
| 撮影:2007年03月11日 |
|
|
|