1867年に大政奉還・王政復古の大号令 |
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宣言はされたが実行はされず |
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大政奉還によって徳川幕府が廃止され、王政復古がなされました。しかし、宣言されただけで、実行はされていませんでした。
依然として、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は江戸・大阪などの主要都市と、全国土の4分の1を支配しておりいます。朝廷は天皇と公家の領地を足しても十万石程度にしかならず、独自の兵力も持っていませんでした。
三浦半島の歴史:人物事典・徳川慶喜 |
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どのように移行させるか決まっていない |
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形だけの天皇政府があり、実質的な経済力・軍事力を保持するのは徳川幕府でした。
この奇妙な二重権力構造をどういう手段で解決していくか、それが大政奉還後の重要なテーマとなっていました。 |
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徳川慶喜側からの宣戦布告 |
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戊辰戦争の始まり |
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西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)らが考案したのは、徳川慶喜に自発的な辞官納地をさせることでしたが、その計画は非現実的で破綻してしまいます。
徳川慶喜は、「討薩の表」を作り、薩摩藩の罪状をあげた「別紙」を添えて朝廷に提出しました。
こうして宣戦布告をし、鳥羽・伏見の戦いが勃発します。
三浦半島の歴史:人物事典・西郷隆盛
三浦半島の歴史:人物事典・大久保利通 |
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優勢だった幕府軍 |
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戊辰戦争が始まろうとしていたとき、幕府軍は1万5000人、対する新政府軍は5000人。
宮中の動揺を鎮めるために、薩長首脳は万が一のことがあれば、比叡山行幸を装って、山陰方面に抜け、安芸・備後あたりに本拠を置いて倒幕の詔(とうばくのみことのり)を下す予定でした。 |
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鳥羽・伏見の戦いの結果 |
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1868年、鳥羽・伏見の戦い勃発 |
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元治4年(1868年)正月3日、伏見方面では幕府軍本隊が、薩摩軍・長州軍と対峙し、鳥羽方面でも桑名軍が薩摩軍と小競り合いになりました。このとき、先に発砲したのは薩摩側で、いっせいに砲撃を開始しました。 |
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幕府軍の敗走 |
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鳥羽方面では劣勢にたたされていた幕府軍でしたが、1時間ほど反撃を試みましたが被害が大きく、撤退しました。夜襲を強行しましたが、焼き討ちに遭い大損害を受けました。
伏見方面でも、長州軍が幕府本陣を猛攻撃していました。最新鋭の武器で身を固めた幕府軍の洋式歩兵隊も敗走しました。 |
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淀城の裏切り |
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敗れた幕府軍が淀城(よどじょう)に退却すると、現職の幕府老中を藩主とする淀藩が門を閉ざし入城を拒否しました。しかも、朝廷軍(薩摩・長州)が追撃して淀城に迫ると謹んで受け入れました。 |
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江戸城無血開城へ |
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駿府にて最初の会談 |
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慶応4年(1868年)3月6日、駿府にいた東征大総督府に勝海舟の使者として、直参旗本の山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)と、薩摩藩士の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)があらわれ、参謀の西郷隆盛と江戸城明け渡しを巡っての交渉が始まりました。
ここでは、徳川家を助けてくれとはいわず、「一朝不測の変に至らば頑民無頼の徒、何らの大変垣内に発すべきか、日夜焦慮するのみ」と語るだけだったといわれています。
三浦半島の歴史:人物事典・勝海舟
三浦半島の歴史:人物事典・山岡鉄舟
三浦半島の歴史:人物事典・益満休之助 |
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事前に大筋で合意 |
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話を聞いた西郷隆盛は、山岡鉄舟を待たせたまま、参謀会議を招集し、ただちに結論を出しました。
江戸城を明け渡すこと、兵器を渡すこと、軍艦を渡すこと、徳川慶喜を備前に預けることなどの七ヶ条でした。山岡鉄舟は兵器を渡すこと、徳川慶喜を備前に預けることだけは断じて従うことはできないとしましたが、西郷隆盛が慶喜のことは任せて欲しいといったので、それを信用し引き下がりました。 |
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抜け目のない勝海舟の行動 |
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その間、勝海舟はもっとも危険な新撰組を甲府に飛ばし、彰義隊を上野へ集め、江戸市中から危険分子を排除しました。さらに、無傷の幕府海軍を江戸湾に集結させ、いかなる事態にも即応できる態勢で待機させてありました。いざというときに備え、火消しの新門辰五郎(しんもんたつごろう)も待機させていました。
三浦半島の歴史:人物事典・新門辰五郎 |
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4月11日江戸城無血開城が実現 |
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新政府軍は終結し、交渉がスタート |
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西郷隆盛と山岡鉄舟との事前会談によって、3月14日、勝海舟と西郷隆盛は薩摩藩邸で交渉に入りました。
新政府軍は池上本門寺(いけがみほんもんじ)、市ヶ谷の尾張藩邸、板橋に集結して総攻撃の合図を待っていました。 |
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土壇場にて交渉成立 |
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西郷隆盛、勝海舟の会談は長い沈黙と、互いの腹の探り合いでしたが、土壇場にきて歩み寄り、江戸城無血開城が決定しました。徳川慶喜は謹慎させられることとなりました。
イギリス公使のパークスは、謹慎中の徳川慶喜を攻撃するのは非道で、平和解決をしないと支援を打ち切ると西郷隆盛に伝えていました。当時、幕府軍はフランスの支援を受けており、新政府軍はイギリスの支援を受けていました。 |
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その後の徳川慶喜 |
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江戸城を退去した徳川慶喜は、水戸弘道館〜駿府で謹慎生活に入りました。翌年には謹慎処分は解除されましたが、隠居生活を続け、1902年には公爵に列せられ、東京に戻りました。
1913年、76歳で亡くなりました。 |
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上野の山に散った彰義隊 |
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人気のあった彰義隊 |
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江戸幕府のお膝元の関係からでしょうか、江戸城総攻撃のために江戸に集まっていた新政府軍は非常に不人気で、上野の山に籠もった彰義隊に人気が集中しました。日に日に志願入隊する者が増え、1500人以上に膨れ上がりました。寛永寺の別当、覚王院義観(ぎかん)も彰義隊を支持していました。
しかし、近代兵器の前には歯が立ちませんでした。佐賀藩のアームストロング砲に狙い撃ちをされ、彰義隊は敗れました。 |
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彰義隊の戦いの影に福沢諭吉あり |
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福沢諭吉は、築地鉄砲州にあった英学校を、芝新銀座にある旧有馬家中屋敷に移転し、慶応義塾と命名しました。
翌年に上野の山で、彰義隊と新政府軍との戦いが起こり砲撃戦が続きましたが、福沢諭吉は悠々と経済学の講義を続けたといわれています。
三浦半島の歴史:人物事典・福沢諭吉 |
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奥羽越列藩同盟締結 |
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奥羽越列藩同盟の結成 |
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仙台藩、米沢藩は、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)に対し、会津藩処分を寛大にするように嘆願しました。しかし、まったく相手にされませんでした。
参謀世良修蔵(せらしゅうぞう)のせいだとみた仙台藩士、福島藩士は世良修蔵を襲撃して暗殺。驚くべき書簡が見付かりました。
そこには、官軍の増援部隊が到着しだい会津藩を一挙に討伐すること、奥羽はみな敵と見なして討たなければならないと書かれていました。
この書簡により奥羽諸藩の怒りは爆発し、5月3日、奥羽、越後の諸藩25藩の代表が仙台白石に集結して会議を開き、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が結成されました。 |
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各地で激しい戦いが勃発 |
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新政府軍は大軍を動員して、奥羽一体を戦場とする悲惨な内乱へと突入していきました。
5月19日、東征大総督に会津征伐総督を兼ねさせ総攻撃を開始。一方、日本海と北陸道を通って越後方面、秋田方面にも進軍しました。
会津若松城攻防戦は8月末から1ヶ月を費やす激戦となり、白虎隊の悲劇は今でも語り草になっています。
仙台藩、米沢藩が降伏した後、庄内藩も9月末には降伏しました。 |
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白虎隊の悲劇 |
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会津藩の攻防戦は、まさに総力戦でした。年齢性別を問わず、戦いに関与しない者は一人もいない状態でした。16歳〜17歳の少年たちも「白虎隊」に組織され、前線に出て行きました。
その悲劇は政府軍が会津若松城下に侵入した直後の8月23日でした。
城外で敗走途中だった白虎隊は、雨に煙る飯盛山から遠望した若松城が落城したものと勘違いし、互いに刺し違えて自決しました。
その悲劇は、たった一人の生き残りの証言によって明らかにされました。 |
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五稜郭の戦いと戊辰戦争の終結 |
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戊辰戦争終結 |
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幕府海軍を率いて江戸を脱出した榎本武揚(えのもとたけあき)・土方歳三(ひじかたとしぞう)らは、12月に蝦夷共和国を樹立しました。日本で初めて、選挙が行われました。
しかし、1869年5月に新政府軍の攻撃により函館五稜郭にいた榎本武揚らは降伏。
こうして、1年5ヶ月に渡って繰り広げられた戊辰戦争は、新政府軍の勝利に終わりました。
三浦半島の歴史:人物事典・榎本武揚
三浦半島の歴史:人物事典・土方歳三 |
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戊辰戦争略年表 |
| 1868年1月 |
京都にて鳥羽・伏見の戦い |
| 1868年3月 |
江戸にて西郷隆盛と勝海舟の会談により、江戸城無血開城 |
| 1868年5月 |
江戸にて彰義隊の戦い |
| 1868年5月3日 |
奥羽越列藩同盟締結 |
| 1868年5月〜7月 |
長岡にて長岡城の戦い。長岡藩家老河井継之助のもと、新政府軍をさんざん悩ませましたが7月に降伏。 |
| 1868年8月〜9月 |
会津にて会津の戦い。朝敵とされたことに憤慨した会津藩主松平容保は新政府軍と徹底抗戦、1ヶ月に渡って籠城し、少年も白虎隊として参戦。 |
| 1868年12月 |
北海道にて蝦夷共和国を樹立。 |
| 1869年5月 |
函館にて五稜郭の戦い。旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争が終結。 |
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