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鎌倉市扇ガ谷


鎌倉市扇ガ谷の歴史

扇ガ谷の歴史

 三浦半島の基部、源氏山の東側に位置し、低丘陵に囲まれた谷あい地です。
 谷あい地には中世の墳墓のやぐらが多数散在し、寺院跡、邸跡もたくさんあります。

 鎌倉時代から確認できる地名です。相模国鎌倉郡の扇谷になります。
 元徳元年以前と思われる11月11日の金沢貞顕書状に、「去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時門前より火いてき候て」とあります。
 『太平記』巻10に、「天狗堂ト扇ガ谷ニ軍有ト覚テ」、「相模守殿ノ妾二位殿ノ御局ノ扇ノ谷ニ御坐ケル処ヘ参リタリケレバ」とあり、新田義貞が鎌倉に攻め込んだ際に当地で合戦があったこと、北条高時の妾二位殿の居所が当地にあり、諏訪盛高が高時の子亀寿を抱いて落ちていったことが記されています。
 『南山巡守録』には、文和元年閏2月、義貞の子義宗・義興兄弟らが上野に挙兵し鎌倉に進行した際、これに与同した石塔義慶・三浦高通らが、「鎌倉の扇ヶ谷」に寄合い、相談した話を伝えています。
 『鎌倉大草紙』には、「上杉弾正小弼氏定扇谷より出向で爰を先途と防戦ける」とあり、上杉禅秀の乱の際の応永23年10月6日、諸国の兵が集まり六本松に迫ったので、上杉氏定は当地から出陣して化粧坂で戦っています。
 『永享記』 には、永享11年2月の永享の乱の際、上杉持朝の臣海老名上野介が「扇谷の会下海蔵寺」で自殺したことが記されています。同年11月には三浦時高が所領の三浦から鎌倉に入り大倉御所を責めますが、足形持氏の子義久が当地に逃げ込んでいます。
 『梅花無尽蔵』には、文明18年10月23日に禅僧万里集九が上杉定正に招かれて江戸城から鎌倉に入り「雪下・扇谷」を通過したことが記されています。
 『廻国雑記』には、文明18年冬に聖護院門跡道興が「扇ヶ谷」で「秋たにもいとひし風を折しもあれ扇ヶ谷は名さへすさまじ」と詠んでいます。
 文亀3年3月13日の快延・慶俊連著奉書写には「相州鎌倉扇谷権現堂福禅寺名代并諸壇已下之事」とあり、永正7年の海蔵寺修造勧進状写には「相州鎌倉扇谷山海蔵寺」とあり、海蔵寺の山号がわかります。
 弘長2年頃の創建で現在は廃絶している多宝寺の山号も扇谷山と称していましたが、当初から扇谷山かは不明です。
 東京円融寺の木造仁王立像には「仏所相州鎌倉扇谷住権大僧都大蔵法眼作之訖」という永禄2年7月の墨書銘があり、「扇谷仏所」の初見となっています。
 永禄12年のものと推定されている北条氏政条書写には、「一、太田美濃守(資正)可被引付、<附>扇谷之義」とありますが、詳細は不明です。
 『香蔵院珎祐記録』長禄4年4月条には「山内ヨリ当初ヘ申タル間、扇ケ谷春(寿カ)福寺へ今月三日雪下ヨリ申者也」とあり、寿福寺が扇ガ谷にあったことがわかります。
 『快元僧都記』天文5年3月1日条には「神宮寺扇谷内匠助造之」とあり、正月20日に大工新右衛門尉が死去したため、当地に住んでいる内匠助が大工として神宮寺を修造しています。天文8年10月条にも、「従去月廿八日、扇谷今小路番匠主計助、荒神之宮修補之」とあります。今小路とは、寿福寺前から六地蔵へ通じる道のことです。
 元亀2年4月18日の北条康成証文には「扇谷ニ候瑞心屋敷之儀」、同年5月10日の北条氏康朱印状にも「鎌倉扇谷之内瑞心屋敷三貫目」とあります。前者は玉縄城主北条康成が仏日庵主鶴隠周音の所望によって当地の瑞心屋敷を与え、これを開発した文書です。後者は氏康がそれを認証したものです。
 『新編鎌倉志』では当地の位置を「亀谷坂を越て、南の方、西北は海蔵寺、東南は花光院、上杉定政の旧宅、英勝寺の地を扇谷と云、亀谷の内なり」とあり、現在の鎌倉市扇ガ谷の1丁目と3丁目〜4丁目と推定されています。

 江戸時代は鎌倉郡の扇ヶ谷村でした。
 寛永10年、元禄10年、幕末ともに寺社領と幕府領でした。
 村高は、『元禄郷帳』では9石余と永136貫余、「天保郷帳」では9石余と永135貫余、「旧高旧領」では9石余と永112貫余です。このうち幕府領9石余は、寺社領に賦課した無地年貢高を石高換算して村高としました。
 寺社領は鶴岡八幡宮、巽荒神社、寿福寺、浄光明寺、英勝寺の各朱印地からなります。
 永高の内訳は、天正19年の各徳川家康寄進状写によれば、鶴岡八幡宮は98貫830文、鎌倉五山第3の寿福寺は5貫200文、古義真言宗浄光明寺は4貫800文、巽荒神社は1貫です。このうち寿福寺分は慶安2年の朱印状写によれば、代々水戸家息女が住持となった寛永13年創建の浄土宗英勝寺へ山林のうち9反余をさき、西御門村に永3貫387文の替地を与えられています。
 安政2年の朱印寺社高反別・除地寺院書上によれば、英勝寺の当村分は永5貫349文、ほかにも三浦郡池子村に420石を宛行われています。英勝寺記では池子村への宛行年代は寛永15年となっています。
 御用鍛冶綱広も天正19年に永20貫の除地を与えられています。
 『新編相模』によれば、江戸から12里余、東西11町41間・南北10町29間、家数39軒、社寺には前記のほかに鎮守の相馬天王社(八坂神社)、天神社、稲荷社(佐助稲荷)、曹洞宗興禅寺、臨済宗建長寺塔頭に属する海蔵寺、日蓮宗薬王寺、鶴岡八幡宮社僧の華光院があります。
 文政7年の地誌調書上帳によれば、土性は砂まじり、天水場・旱損場の村で、田畑の比率は約田方3分に畑方7分、農間の稼ぎは職人・小商・日雇などとあります。
 天保9年の渡世書上帳によれば、人別215人、家数39軒、うち農業専従15軒、農間諸職人20軒、農間に商売するのは湯屋2軒・呉服太物商1軒・小間物商1軒の計4軒です。

 明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属します。英勝寺領は明治4年、水戸県を経て神奈川県に所属します。
 『皇国地誌』によれば、税地は71町3反余のうち田7町余、畑19町3反余、宅地3町余、山林39町1反余、ほかに旧御用鍛冶綱広分5町余、雪ノ下村・大町村・小町村に飛地が散在します。明治9年の戸数58、人口272、民業は農業専従31戸、農間工匠6戸、鍛冶1戸、仏工2戸、雑業25戸です。
 明治22年、東鎌倉村の大字の扇ヶ谷となりました。横須賀線が開通し、当地中央部を鉄道が走りました。
 明治24年、戸数52、男148人、女140人でした。
 明治27年、鎌倉町の大字となりました。
 明治45年、戸数118、人口422人でした。
 大正12年、関東大震災で被災し、戸数192のうち全壊70、半壊73、全焼1、死者17人でした。
 大正14年、世帯数268、人口573人でした。
 昭和14年、鎌倉市の大字となりました。
 昭和25年、世帯数523、人口2102人でした。
 昭和35年、世帯数626、人口2422人でした。
 昭和40年、一部が御成町、小町となりました。一部が扇ガ谷、佐助に分かれました。
 昭和44年、亀ヶ谷坂・化粧坂が国史跡の指定を受けました。
 昭和45年、1丁目が世帯数222・人口711、2丁目が世帯数173・人口593、3丁目が世帯数77・人口269、4丁目が世帯数235・人口832でした。

地名の由来

 かつては、亀谷と呼ばれていました。
 飯森山のふもとにある扇ノ井に由来しています。
 また、扇ガ谷は亀谷の小名になり、管領上杉定正の屋敷があり、彼が扇ヶ谷殿と呼ばれていたことに由来しています。

梶原 山ノ内  
佐助 扇ガ谷 雪ノ下
  御成町 小町

寿福寺


寿福寺 鎌倉五山で有名な寿福寺です。

源氏山公園の紅葉


源氏山公園の紅葉  サクラの名所、紅葉の名所としても知られている源氏山公園。
 モミジの紅葉で作られたトンネルは、とても美しかったです。

源氏山公園


源氏山公園 源頼朝像で有名な源氏山公園。
 アクセスの悪い場所にありますが、春は桜、秋には紅葉を楽しむことができます。

化粧坂切通し


化粧坂切通し 鎌倉七切通しのひとつで、国の史跡に指定されています。
 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めの際の激戦地です。

景清の牢


景清の牢 源頼朝暗殺に失敗して捕らえられた平景清(藤原景清)が幽閉されたと伝えられている岩屋。
 半分以上崩れてしまっています。

やぐら


やぐら 扇ガ谷地区で発見したやぐらです。
 鎌倉時代〜室町時代に造られたお墓です。

底脱の井


底脱の井 鎌倉十井のひとつ。
 底なしの井戸ではなく、水を汲むときに桶の底が抜けたことから、底脱ノ井となりました。

海蔵寺


海蔵寺 茅葺屋根の趣のある庫裏が特徴で、花の名所でもあり、写真好きに人気があります。
 十六ノ井、底脱の井があります。

十六ノ井


十六ノ井 海蔵寺の十六ノ井。
 水の寺と言われるように水の豊富な寺院で、16個の穴には湧水が湧き出ています。

 
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